はじめに

一般財団法人バイオインダストリー協会(JBA)生物資源総合研究所 野崎恵子課長にお話しを伺いました。生物資源総合研究所は、生物多様性条約(CBD)の議論に長年携わり、産業界の視点から国際動向の分析や政府への情報提供を行ってこられました。今回は、同研究所の業務とともに、国際会議での合意プロセス、ABS議論の現状と理想像についてお話しを伺いました。

1.JBAの歴史

JBAの前身は、1942年設立の微生物利用を中心とする産業界の団体であり、それ以降一貫して、発酵技術を基盤とした研究と産業の連携を推進してきた。発酵技術は日本の産業にとって重要な基盤技術であり、味噌や醤油などの食品産業から医薬品や化学産業まで幅広く利用されてきている。
微生物と発酵の重要性に着目し、1980年代から、海外の生物資源に関する調査活動を開始した。当時、東南アジア諸国を対象として、どの国にどのような遺伝資源が存在するのか、日本の産業にとってどのような資源が重要となり得るのか調査を行った。このような取り組みは、当協会の石川不二夫氏や炭田精造氏などの功績によるもので、将来的に遺伝資源へのアクセスが制度化される可能性を見据えた先行的な活動であった。

2.生物資源総合研究所のABS業務

現在、当研究所はABSを中心として、カルタヘナ議定書にも対応している。業務は主に二つの役割から成る。第一は国際制度の動向に関する情報収集、第二は産業界の意見の取りまとめと日本政府や海外の関係機関への情報提供である。
情報収集の場は国際会議である。担当者がCBD締約国会議(COP)などに参加し、各国の政策動向や交渉の流れを把握する。COP2から間断なく関与しており、安全性と利益配分という二つのテーマについて、前者はカルタヘナ議定書、後者はABSとして情報を収集している。各国の制度の変化や政策の方向性は、こうした場での議論を通じて初めて見えてくることが多い。さらに、これまでに培った国際的なネットワークを通じて最新情報を得ている。
ABSを巡る制度はCBDだけではなく、食料・農業植物遺伝資源条約(ITPGRFA)、国連公海等生物多様性協定(BBNJ協定)、世界保健機関(WHO)の取組など、複数の国際制度と関係している。当研究所はこれらの制度の動向も継続的に注視し、将来的にABS制度にどのような影響が生じる可能性があるのかを分析している。
二つ目の重要な業務は産業界の意見の取りまとめである。JBAでは国際会議での議題に合わせ、企業関係者が参加する委員会を開催し、ABS制度に関する課題や懸念について議論を行っている。時には、経済産業省の委託事業を受け、その議論を整理し、日本政府に対して産業界の立場を伝える役割を担っている。
これら二つの役割以外にも、企業からの質問に年間30件ほど応じている。現地での事業活動や共同研究にABSがどのように関係するかという問い合わせが多い。過去に日本へ持ち込んだものを現時点で製品化する場合に質問されることもある。現在では、海外微生物の利用が企業の活動の主流から外れつつある。製薬会社などによる天然物採取という不効率な活動の時代は過ぎ去ったとはいえ、CBD自体が利用のハードルを高めていることも一因となっている。

3.国際会議での議論

CBDの重要な意思決定は、COPで行われる。COPは数千人規模の参加者が集まる大規模な国際会議である。現在では政府関係者だけでなく、NGO、産業界、学術機関などのオブザーバーを含めると、一万人以上が参加することも珍しくない。
会議の意思決定は、まず全体会議で議題が提示され、その後、議題ごとに「ワーキンググループ」に分かれて議論が行われる。さらに議論が細分化されると、特定のテーマに絞った「コンタクトグループ」が設置される。ここでは締約国の代表が集まり、より具体的な条文の修正や交渉が行われる。それでも合意が得られない場合には、「フレンズ・オブ・チェア」と呼ばれる少人数の協議グループが設けられる。この場で取りまとめ案が作られ、その結果が再び上位の会議に戻されるという流れで議論が進んでいく。
勧告という原案の検討はしばしば段落ごとに議論される。各国代表は挙手して発言し、提案や修正意見を提示する。発言しなければ議論に影響を与えることができないため、関心のある国は積極的に発言を行う。COPの最終合意は「決定(decision)」という形で、最終日前後に採択される。特に重要な議題の採択は深夜を回ることもある。
ABSに関する議論では、先進国と開発途上国の立場の違いがしばしば表面化する。遺伝資源の提供国である開発途上国は利益配分の強化を求める一方、利用国である先進国は実務上の運用可能性を重視する。こうした立場の違いが、国際交渉の難しさを生み出している。

4.ABS議論の現在地

ABS制度は現在も発展途上にある。遺伝資源に関しては、各国に入手手続きや場合によっては利益配分までの法令を策定することが求められている。しかし、法令策定自体の困難性だけではなく、法令運用にも困難が伴い、なかなか期待するような大きな利益配分が常には得られていないのが現状である。そのため、利益配分の増加が常に国際交渉の論点となっている。
特に近年は、遺伝資源のデジタル配列情報(DSI)の扱いを巡る議論が注目されている。研究のデジタル化が進む中で、物理的な遺伝資源だけでなく、遺伝情報の利用についても利益配分の対象とすべきという決定がでている。学術研究に制限を掛けることは世界が望むことではないので、今のところ直接的な影響はでていないが、産業界には任意で支払いを求めるメカニズムができている。中長期的にみた場合には、研究活動や産業活動の将来にも大きな影響を与える可能性がある。

5.CBDに求められる視点

開発途上国と先進国との溝の深さをいつも感じている。開発途上国の衣食住が満たされ、先進国と同じレベルになれば、企業の立場やDSIデータベースの社会基盤としての重要性を十分に理解できるようになるであろうが、現状は共通理解ができていない。本来であれば、競争相手となるべく開発途上国の努力を支援するのが一番良いと思われるが、現状では、キャッシュの配分のみに議論が集中する傾向にある。その結果、企業が遺伝資源や新しい技術の利用を回避することになり、イノベーションの範囲を狭めることにつながる。ひいては、企業活動の成果である世の中に役立つ製品が開発されなくなってしまう。このことを非常に残念に思っている。
CBDは環境条約のひとつである。自国の利益のみを優先するのではなく、互いの理解に努め、世界を俯瞰して、本当に環境のためになることを皆が考えて国際会議に臨めば、人類にとって良い方向に進むのではないだろうか。そのための、お互いに利益を享受できるようなCBDの進むべき方向を見出したい。

おわりに

野崎課長のお話を伺い、開発途上国の政策決定者の意向が、その国の研究推進を押し上げるようには必ずしも機能していないように思いました。ABSの実務を通じて提供国の研究者と接する中で、多くの方が日本の研究者との協力関係を大切にしながら、誠実に自国のABS手続きを進めようとしています。一方で、制度の複雑さゆえに、その運用が自国の研究の進展に影響を及ぼしているのではないかと考えさせられる場面もあります。本来スピード感を持って促進されるべき研究活動が円滑に進まない状況は、非常に残念でなりません。

インタビューにご対応いただきました一般財団法人バイオインダストリー協会 生物資源総合研究所 課長 野崎恵子氏に厚く御礼申しあげます。
(インタビュー日 2026年1月15日)

PDFはこちら

関連記事

RELATED POST

この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


PAGE TOP
MENU
お問い合わせ

abs@terayoshi-gyosei.com