はじめに
日本の大学が、かつてブータンの政府機関と菌類に関する研究事業を共同で行っていました。その過程で、2017年にABS手続きを経て、菌類サンプルを日本へ輸入しました。ところが、数年後にブータン側からサンプルの返還を希望するとの連絡がありました。
ブータンでは、2022年に新たな生物多様性法が制定されました。今回は、日本の研究者がこの新法制定以前の制度下でサンプルを輸入し、その後返還した事例を紹介します。
1. 基本的ABSプロセス
海外の遺伝資源を利用する場合、一般的には次の7段階のプロセスを経ます。ただし、提供国の法制度、提供国研究機関との関係性、遺伝資源の種類によっては、一部の手続きが不要であったり、手続順序が変わったりする場合があります。
(1)信頼できる提供国相手の決定
(2)提供国のABS情報の収集
(3)他の国際条約、利用国(日本)の法令の遵守
(4)「相互に合意する条件(MAT)」を定めた契約を締結
(5)提供国政府から「情報に基づく事前の同意(PIC)」を取得
(6)「材料移転契約(MTA)」を締結
(7)試料輸送手段の確保
2.具体的な対応
1) 提供国の相手
相手はブータン農林省(当時)の行政機関の代表者でした。この機関は研究機関としての役割も担っていました。この相手と日本の研究者が国家間の共同研究事業に取り組む中で、ブータン産菌類の図鑑を作成することになりました。そのためには、ブータンで採取した菌類試料を乾燥標本として輸入し、日本で詳細な形態観察やDNA解析による同定を行う必要がありました。
2) 提供国のABS情報
ブータンでは2003年に生物多様性法が制定されました。2014年に名古屋議定書の締約国になり、2015年にABS政策、2022年に新たな生物多様性法、2023年に生物多様性規則および規制が制定されています。2003年の生物多様性法は、2022年の新法の制定に伴って廃止となりました。また、2018年に遺伝資源および関連する伝統知識の管理のためのABSツールキットが公開されています。
サンプル輸入は2003年の生物多様性法に基づくものでしたが、当時は、現在のように詳細なABS実施手順や運用情報の公開は十分ではありませんでした。
3) MAT、PIC、MTA
ブータン側の相手が、ABSの国内連絡先(NFP)である、同じく農林省の生物多様性センターと連絡をとってくれました。相手機関が申請者となり、生物多様性センターと日本の大学との間でMTAが締結されました。このMTAの中にMATの内容が盛り込まれました。
PICについては、相手機関が生物多様性センターへ提出した申請書が受理されたことを、PICに相当する手続と理解しました。
4) 日本の法令
乾燥した菌類は日本の植物防疫法の対象外でした。サンプルは携行により、日本へ輸入されました。
5) サンプルの返還要請
輸入後4年目に、ブータン政府がサンプル返還を希望しているとの相手機関からの連絡がありました。しかし、当時、サンプルの同定は完全には終了しませんでした。そこで、日本側からは主なシーケンスデータを先行して提供することとしました。サンプル返還については図鑑完成後まで猶予を求め、これが承認されました。
2023年に図鑑は完成し、ブータン側にサンプルを返還しました。実は、輸入当時のMTAにはサンプル返還に関する明確な取決めはありませんでした。しかし、ブータンがABSクリアリングハウス上で示している利用者への期待事項*1、ⅰ)利用者はブータン国民の文化的・精神的価値を尊重する、ⅱ)利用者は倫理性、信頼性、透明性を備えた誠実なパートナーであること、を日本の研究者は尊重すべきであると考えました。そこで、日本の大学は今回の返還に応じたということでした。
3.ブータンの現在のABS対応
2021年にABSクリアリングハウスのWebサイトに掲載された一般的なABS手順の説明を紹介します*2。
まず、ブータンは同国の遺伝資源および関連する伝統的に知識に対して主権を有することが前提です。研究および商業目的で遺伝資源などにアクセスする利用者は、2つの段階、すなわち『Scoping段階』と『Activation段階』から成るABSプロセスに従います。
『Scoping段階』
(1)NFPにアクセス申請を提出する。
(2)NFPの支援を受け、遺伝資源などの提供者からPICを取得する。
(3)MATに基づき、NFPとScoping契約を締結する。
(4)遺伝資源などを用いて研究開発する。
『Activation段階』
(1)商業化の可能性がある場合、NFPまたは遺伝資源などの提供者とABS協定を締結する。
(2)製品の販売などを通じて利益を得る。
(3)ABS協定に基づき、NFPおよび遺伝資源などの提供者と利益(金銭的または非金銭的)を分配する。その利益は、地域社会の発展および生物多様性の保全に充てられる。
おわりに
2022年の新たな生物多様性法の施行以降、ABSクリアリングハウスのWebサイトでは、NFP、管轄国家機関、および法令の欄のみ更新されました。現時点で、ABS対応手順の欄は2021年に更新されたものです。
ABS制度は、法令の制定後も実務運用や要求事項が継続的に変化する場合があり、過去の事例がそのまま現在の手続に適用できるとは限りません。個別案件では、最新情報をNFPなどへ確認することが重要と思われます。
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